居場所を求める幼き魂
昔・・・・
探偵をしていた時に「オウム真理教」へと傾倒した10代の若者を探したことがある。
彼は「自分の居場所」を求めて家を出て、オウム真理教という「自分と同じような境遇」の人たちが集うところへ行ったのである。
自分の家に「安心できる居場所」が無く、そういう子らの云わば「受け皿」のように、そこに「オウム真理教」というものがあったということだ。
やがて彼らは自らの「居場所を守る」ため・・・という自分にとっての「正義」という幻想で自らを騙し、犯罪にも手を染めてゆくこととなる。
恐らく、家というところに「安心できる居場所」というものを提供できなかった親御さんたちも、自らの子供時代を振り返れば「居場所」というものが無かっただろう。
ただ「居場所」というものに対する『見方』が違ったから、自分を苦しめる場所でも「居られた」ということだ。
だが、その「見方」は「時代」によって醸成されていたもので、「時代」が変わればその「見方」というものは消え去る。
そして、時代が「変わった」ということに対応できなかったがために、自らの子供の「居場所」を作ることが出来なかった・・・・ということだ。
そう・・・
あれはバブルが弾けて日本経済が「転換」し始めたころだった。
上り坂から下り坂へと現実の日本社会は進み始めたが、上り坂だけを長年生きて来た人にとって、下り坂の現実認識は追い付かない。
だが柔軟な若い頭は「下り坂で上り坂の理屈は通用しない」ということを本能で認知する。
現実と人の脳内の世界は真逆の放物線を描いており、その不安定さゆえに人は「外殻」を強固にして「安全地帯」を維持しようと努めた。
意識の「箱庭」を作り、脳内ではそこに閉じこもり、「上り坂」しか知らない人たちが「上り坂」の常識を持ち続け、「下り坂」であることを『見ないように』してきた。
そんな「歪み」が心を歪めてゆく。
そうやって現実を『見ないように』してきたから、この三十年という月日は「失われた」わけである。
あれから三十年・・・・
サターンリターンに至って、人は再び現実を「見ないように」するという「箱庭」へと逃げている。
自分の「居場所」を求めて様々な「信者」という「カルト化」し行く人々・・・・
「オウム真理教」という居場所を守るために、自分がされて一番嫌なはずの「人の居場所を奪う」という行為を行う。
それは「居場所がない」自分の『恨み』を晴らすように行われ、それを「居場所を守る」という『正義』と定義し、自らの「歪み」を正当化して『大量殺人』を行うかもしれない道へと進んでゆく。
『恨みという意識の繋がりをもって「居場所」となったものを守る『正義』という脳内の箱庭に住み着いた意識は、『恨み』という自らの「歪み」を正当化するために、周りの人々にも「歪み」を与え『恨み』を持つという「同じ」に染め行く。
何せ「同じ」であることが「安心」なのであるから・・・・
私が住んでいる兵庫県で現在起こっていることもそういうことである。
自らの「歪み」や「満たされなさ」を埋めるために「斎藤知事」という神輿を利用して、「祭りの参加者」という共通項を「安全地帯」とし、それを守るためなら何をしても「正義」であるという『箱庭』に意識を定住させ、「恨み」や「不満」という自らの心の汚泥を「神輿」を担ぎながら振りまき続ける。
麻原彰晃という「神輿」を担いで「お祭り気分」で「恨み」や「不満」を振りまき続けたように、斎藤知事という「神輿」を担いで「お祭り気分」で「恨み」や「不満」を振りまき続ける。
三十年前の『焼き直し』である。
それは兵庫県だけに留まってはいない。
日本中に同じような現象が現出している。
それらは、自らの「居場所」を「他者」に求めるという愚かさから来るもの。
安心できて安全と思える居場所を「与えてくれる」ものを求めるからである。
『それは当然ではないか』
そう思う人は「誰かの居場所」などにけっしてなれない。
自分がなれないにもかかわらず、他者に「それ」を求める。
なんと幼稚で我が儘な心か・・・・
自分自身が「自らの居場所」とならなければ、いつまでも「居場所」を求めて彷徨う。
居場所を「与えて」くれるものを求めているうちは、自らが他者に「与える」ことはけっして無い。
他者に求めているうちは、心の中に「恨」の念が巣食っている。
与えられないという「恨」の念である。
天上天下唯我独尊
それは自分が自分の居場所であるということ
自分がいるのは「自分の中」である。
自分という器の中に自分という意識が「居る」のであるから。
自分以外に「居場所」となれるものは無い。
大地に根を張り屹立する木のように、自分が「立って」いないから「居場所」が無いのである。
自分の意識は自分という「存在の木」に止まっている小鳥のようなものである。
他者に「居場所」を求めるのは「蔦草」である。
木に絡みつき自分が木のようになっていると「思いたい」ということ。
そして、絡んでいる「木」を守ることが「正義」となっている「蔦草」なのである。
自ら「立つ」ということが出来ない『幼き魂』たち・・・・
自ら「立つ」ということを、他人の目線で行おうとするから歪む。
誰かに「立っている」と見せつけても、自分自身は騙せない。
だが、騙せないのに騙し続ける。
騙している自分がいて、騙されている自分を認識して・・・・
だから騙されやすく、また、人を騙す。
自分にしていることがそのまま他者への行動となる。
自分という意識の小鳥が安心して「止まり木」となれるのは自分だけである。
自分ほど安心できる「居場所」はない。
それを 天上天下唯我独尊 という。
縦に伸びず横にばかり伸びれば「蔦草」となる。
大樹となるには「縦」に伸びなければならない。
自分が自分の居場所となれぬなら、誰かの居場所になどけっしてなれない。
他所に居場所を求めて寄りあうのは「共依存」
その根っこに「恨」があるから「恨」という『穢れ』を撒き散らす。
それは、人の慶びを奪い、幸せを奪い、命を奪い、尊厳を奪う。
以前、【癒奏術・沙羅樹】という施術を行っていた。
それは「自分自身の木と成れ」というものである。
だが、自らが「成ろう」としなければ成れない。
大方は「他者の目」を気にして、「同じ」ことが安心であると勘違いしているから「蔦草」のまま成長出来ない。
自分が自分で在ることを「慶べない」から「尊べない」のである。
境遇とか時代とか、『自分でないもの』ばかり見て、一向に自分自身を見ようとしない。
見ているのは「他人の芝生」ばかりであり、だから「横へ横へ」と這いずり回る。
赤子のように・・・・・
居場所を求めて右へ左へとくねくね這いずる蛇のように・・・
五十黙示録 扶桑之巻 第十五帖
百不足(モモタラズ) 八十隈手(ヤソクマデ) いまひらかんときぞ
天のことは今迄は人民には判らなかったのであるぞ、時めぐり来て、岩戸がひらけて、判るようになったのぞ、今迄の人民であってはならん、地そのものが変ってゐるのであるぞ、人民は我が強いから一番おくれてゐるのであるぞ、人民の中では宗教人が一等おくれてゐるぞ、神人とならねば生きては行かれんのぢゃ、天地がアメツチとなってきてゐるからぞ、天も近うなるぞ、地も近うなるぞと気つけてありたのに目さめた人民少ないぞ、今に昇り降りで急しくなり、衝突するものも出てくるぞ、他人におんぶされたり、車に乗せられてゐた人民たちよ、もうその時は過ぎてゐるのであるから、自分の足で歩まねばならんぞ、大地をふみしめよ、大地の気が身内に甦るぞ。
五葉之巻 第九帖
平等とか公平とか申すのは悪魔のワナであるぞ、天地をよくみよ、人民の申す如き平等も公平もないであろうがな、一寸のびる草もあれば一尺のびる草もあるぞ、一寸の草は一寸が、一尺の草は一尺が頂天であるぞ。これが公平であり平等と申すもの。人民は選挙と申すマヤクに酔ってゐるぞ、選挙すればする程、本質から遠ざかるぞ。他に方法がないと定めてかかるから、悪魔に魅入られてゐるから判らんことになるぞ。世は立体であるのに平面選挙していては相成らんぞ。平面の数で定めてはならん、立体の数に入れよ。
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