『悟り』~ブッダが使わない言葉
観自在菩薩行を行っているブッダの周りで、ただ独り「以心伝心」した人物がいた。
ブッダはその人を見て
「そなたはすでにバラモンである」
そう言った。
後年、そんなブッダの言葉は「悟り」という言葉に転換された。
何故?
バラモンとは「神の祭祀」のことである。
三柱の神を中心に、様々な神々が息づくバラモンの教え。
祭祀とは、神の意思や御言を受け取る者
「そなたはすでにバラモンである」
それは
「そなたはすでに神と一体である」
ということだ。
そんなブッダの教えから『神』を排除したものが「仏教」である。
なぜ排除したか?
そうしなければ広まることはなかったから・・・・というのが正しいだろう。
宗教は既に「政治の道具」という立場となっている時代である。
西洋では「教義」というもので縛ることで宗教を政治の道具の一つとして配置した。
中国に渡ったブッダの言葉から「バラモン」が消え「神」が消えたのは、統治者である「黄帝の神格化」であり、それが日本に渡った時も「同じ」使われ方をした。
「皇帝の神格化」である。
聖徳太子は「物部守屋」と共に「ホツマツタヱ」を葬り、唯一「神」と繋がるのは「皇帝のみ」とし、「仏教」によって「神」を薄めていった。
ホツマツタヱではあくまでも統治者は「神の祭祀」である。
「神格化」された祭祀ではなく、ブッダが「そなたはすでにバラモンである」と語ったように、「神を宿す者」が祭祀である。
世界は共通して「ピラミッド型」の社会形態へと変遷していった時代なのである。
そこに「神」は不要な存在。
だがそれでも日本ではなかなか「神」は消えなかった。
「言葉」の中に既に「織り込まれて」いるからである。
だが、やがて政治は「宗教」によって動かされるようになり、民主主義という時代に至っては「カルト宗教」にまで政治が動かされるまでに至った。
権力の道具になった宗教は、長い年月をかけて「権力」を道具にする術を得た。
それは「神」を捨てること・・・・
民主主義という「神格化」された統治者の存在が消えたところで、宗教というものの中で「神格化」された教祖が力を持ち、統治機構の権力者をも傘下に於けるほどの「数」という権力を得たのである。
神は捨てたが、それでも「神の掌」の上でしかない。
「神格化」するという「神」の存在を結局は「捨てても捨てきれない」のである。
覚(さとり)
飛騨美濃の深山に玃(かく)あり 山人呼んで覚(さとり)と名づく
色黒く毛長くして よく人の言(こと)をなし よく人の意(こころ)を察す
あへて人の害をなさず 人これを殺さんとすれば、先その意(こころ)をさとりてにげ去と云う
Wikipediaより
観自在に以心伝心する「サトリ」を見たなら「そなたはすでにバラモンである」とブッダはきっと言うだろう。
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