「言霊」という『思い』 《霊界探訪》
「思い」は言葉ではない。
言葉は「思い」を言語変換したもの。
その言語変換を人は「素直」に「真っすぐ」に変換出来ているわけではない。
「思い」とは違う言語変換をして、変換された「言葉」に従う。
すると思いと行動はズレる。
「身・口・意」の三密の一致とは、言葉で言うほど簡単なことではない。
人はいとも簡単に自分の「思い」を捻じ曲げて言語変換する。
「思った」ことと違うことを「思った」ことにする。
自己正当化やプライドや・・・・
その奥にある恨み、妬み、僻み、嫉み・・・・・
更にその奥にある「恐れ」「怒り」「悲しみ」「喜び」
心に湧いた「思い」を「修正」しながら「言葉」へと転化する。
霊界は「言霊」で対話する。
言葉に変換することはない。
言葉に変換しているのは常に自分である。
霊界の出来事を「言葉」にせねば伝わらない。
だが、同時にそれは「言葉」によって「囚われ」を生む「呪い」となる。
霊界の出来事を現界に現わす時、いろいろなものが歪む。
その一番が「言葉」
言霊の「以心伝心」を言葉にしているのであるが、それは「変換」されたものである。
ただただ「思い」を真っすぐに伝える会話を、ただ「言葉」をもって変換しているのである。
「現実世界」に於いても「思い」は「以心伝心」している。
「言葉」の前に「言霊」があらわれる。
「言霊」と「言葉」が『違う』ことが当たり前となっている現実世界である。
当たり前すぎて自分でもわからなくなっている。
だから、人は変換した自分の「言葉」によって「呪い」に懸かる。
そうして「思い」として何度も何度も湧き立った「言霊」は、「行動」へと昇華されないまま時を過ぎてゆく。
だから人はいつまでたっても「餓え」や「渇き」に苦しみ続ける。
自分の思いを捻じ曲げて、自分の思いを達成させない。
いつも消化不良が続いている。
導きが降ろす言霊は、そうして達成されぬまま放置され続ける。
導きの言霊、神の言霊を「言葉」にするとき、それを捻じ曲げる「別の思い」がある。
「思い」が混じれば歪むのは当然である。
別の思いもたくさんある。
それらの「何が」混じっているのか・・・・
それすらわからないだろう。
人はそれほどに「思い」を真っすぐに言語変換出来ていないのである。
言霊を真っすぐに受け取るのが「天照大御神」
言語変換するのが「月読命」
どちらも曇っていれば言霊は真っすぐ言葉に成らない。
誠とは言霊が真っすぐ「言葉に成る」こと。
「真言(まこと)」である。
真の言霊を真っすぐ変換した真の言葉
三密せねば成らないものである。
余計に混じる「思い」「感情」「記憶」などが混じらぬよう、常に心を掃除し言葉を洗濯していなければ、何が「汚れ」なのかもわからない。
美味しい料理もワインも、服に、絨毯にこぼせば「汚れ」である。
綺麗な言葉も、優しい心も、言霊に必要ない時に混じればそれは「穢れ」である。
「誠」を歪める「シミ」となる。
「悪」は純粋なれば「善」となる。
「善」は純粋ならざれば「悪」となる。
「悪」を「悪」とする「善の混ざり」が「悪」でないものを「悪」とする。
「善」を行う心に別の「思い」が加われば、「善」は歪んで「悪」へと帰着する。
言霊を言葉にするときに「善」にしようなどと「別の思い」を混ぜれば、神の言霊であっても「悪」へと巡る。
「思った」ことをそのまますぐに実行しようとすればわかること。
いかに「実行」が困難な「思い」がたくさんあることか・・・・
それに気付く。
頭の中で「思い」を色付けし、味付けし、カタチを変えてゆく自分がいる。
そうして納得できた姿は、最初の「思い」にあった「意図」が薄れ消えている。
それはもはや「叶っても意味のない思い」となっている。
導きも守護も神々も、いくら言霊を「思い」として伝心させても、なかなか昇華されない言霊が「流れて消えて」いくのをいつも見ているしかない。
最初に戻ろう。
「思い」は言葉ではない。
言葉は「思い」を言語変換したもの。
「脳」の思考は「言霊」を言語変換する「意思」によって発動される。
「思い」が湧くから「言葉」に変換するのである。
ブッダが「受・想・行・識」と言ったそのままである。
最初の「受」とは何なのか?
「思い」の受信である。
「思い」とは「潜像世界」に生まれた『霊の玉』
それを自分である「霊」が感受する。
「以心伝心」である。
それを「頭で言葉に変換」するから『言霊』と言う。
「想」とは「言霊」である「思い」を言語思考に「相照らす」ことである。
そうして「行」という言語化して「言葉」に代わり
その結果を「認識」することで「記憶」される。
「受・想・行・識」の「受」から「想」、「想」から「行」、「行」から「識」のそれぞれの合間に「別の思い」や「別の意図」が『混じる』わけである。
そうして最終的に「認識」された言語化は、言霊とは違う姿、違う意図を持ったものに変わっている。
別の思い、別の意図が「混じる」のを見つけ、それを排除するのは「嗅ぎ分ける鼻」である。
「素戔嗚命」の役割である。
伊邪那岐命が「禊ぎ祓い」で「三貴神」を生んだのは、「誠」に「穢れ」が生じて「言霊」が歪んで穢れて「人の行動」へと帰結していくからである。
天照大御神が岩戸の中にいるということは、言霊という「思い」の感受が「闇」でまともに「見えていない」ということである。
いったい誰の?何の?言霊なのか・・・・
それが見えていない。
それが見えていなければ、言語化しても「それが何なのか」もわからぬまま言語化しているということ。
太陽が無ければ月は照らない。
天照大御神が岩戸の中なれば、月読命は使命を全うできない。
最初の「受」が間違えば、すべてが間違うわけである。
再び最初に戻ろう。
「思い」は言葉ではない。
言葉は「思い」を言語変換したもの。
受信する心は胸にある。
上からの受信と下からの受信の真ん中である。
上から来るのは「言霊」
霊からの言霊である。
下から来るのは「身霊」
身体からの言霊である。
人はそれすら見分けていない。
上から来ているのか下から来ているのかさえ・・・である。
下から来たものを「神の言葉」と言う人も多い。
ヨガのチャクラの開発は常に「下から」である。
チャクラに附された数字が呪いとなって、「下から」ばかりであるために、ほとんどの人が「第4チャクラ」で詰まる。
そうしていつしか「肉体」が『神』として君臨する。
その逆もある。
なんでもかんでも「上から」と思い込む。
下から来ても「上からの言霊」と思い込む。
そういったものを「穢れ」というのである。
だから禊ぎ祓えと・・・・・・
湧き立つ「思い」が何であるのか?
それがわかった時、天照大御神が岩戸の中から出てきた・・・・ということである。
照らす太陽の神が現れれば、言霊を読む(言語化する)月も照り映える。
「思い」を一切の混じりけなく「言葉」に変換すること・・・
それが「神との対話」「霊との対話」にとって重要なことなのである。
霊界では常に「言霊」の「以心伝心」によって対話する。
だから一切嘘がつけない。
騙されるのは、つねに自分の「闇」が原因である。
自分で「歪めた」結果なのである。
ひふみ神示にあっても、霊界物語にあっても、大本神諭にあっても・・・・
混じり気という「ものの化」が入り込む。
その「ものの化」は、文字にあるのか、文章にあるのか、書いた人にあるのか、それとも読んでいる自分にあるのか・・・
文字の、文章の奥にある「言霊」を見ることである。
言霊と言葉の間に「歪み」があればわかるものである。
そのために「言霊」というものを良く知る事。
それは「思い」を知る事である。
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