覚醒を妨げるのは、一にも二にも『見栄を張る心』
「見栄を張る心」というのは結局のところ意識が「外側」を常に向いているということである。
そして、その「外側」とは「自分を見ている目」もしくは「見ていると思っている目」であり、『その目にどう映るか』という意識が常にある。
それは『枷(かせ)』
自ら足枷を付けて「見ている目」から見た「見栄え」のいい場所にしか「進まない」ということになる。
心の内側、奥底に広がる無限の宇宙は、そんな足枷をハメたまま進んで行けるところではない。
小さな「箱庭」を世界の全てとしている人々から見た「見た目」という狭い世界をウロウロしながら「承認」を得るために「真新しいこと」を探し回る。
小さな箱庭にはすでに「真新しいこと」など無く、だから「認知」を歪めて「解釈」をつけて「真新しいこと」のように『見栄を張る』。
箱庭の外側は「見栄も外聞も」無視したところに無限に広がっているわけであり、内側に広がる世界に「枷なく」進まなければ何も得られない。
見栄を張る心が壁を作り道を歪めているのに、それをけっして手放さない。
むしろそれが一番大事であるかのように、見栄と外聞に振り回される。
そうして「誠」を歪めてゆく。
掃除洗濯せねばならない第一が「見栄を張る心」
それがある限りけっして岩戸は開かない。
他人の「承認」を得ても岩戸は開かない。
承認を得るのは「神」そのものである。
二股かけて二兎を追う者は一兎も得ず・・・・である。
だから「ブレーキを踏みながらアクセルを踏む」という状況そのもの。
私が言うよりこの言葉を送ります。
ひふみ神示 黄金の巻 第十七帖
【神、拝しても筋違ふと水の泡ぞ】。まだ迷うてゐるが、それでは仕組成就せんぞ。褌しめて一本道の真心結構。金がよければ金拝め。人がよければ人拝めよ。神がよければ神拝め。
五十黙示録 極め之巻 第二帖
青玉の 水江の玉ゆい よよ栄えむ
天地咲(え)む 神の礼白(いやしろ) 臣(おみ)の礼白(いやしろ)
天(あま)つ神の 寿言(よごと)のままに 八十(やそ)岩明けぬ
守護神をよく致せば肉体もよくなるぞ。神の道は一本道であるから、多くに見へても終りは一つになるのぢゃ、今が終りの一本道に入るところ、この道に入れば新しき代は目の前、神も今迄はテンデンバラバラでありたなれど、今に一つにならねばならぬことに、天が命じてゐるのであるぞ。人民の中と外も同様ぞ。今の人民はマコトが足らんから、マコトを申しても耳に入らんなれど、今度は神が人民にうつりて、又 人民となりてマコトの花を咲かす仕組、同じことを百年もづづけてクドウ申すと人民は申すなれど、判らんから申してゐるのであるぞ。
富士の裾野に屯する 樹海に惑う青人草
見栄の蔦草破りて進め 天の岩戸は山の入り口
山に入らねば道しるべ 役には立たぬ皮算用
神への道は一本道 奥の細道戻るべからず
進めばわかる帰りの恐さ 「戻れない」より「戻りたくない」
進めばわかる白山道 進まなければわかるまじ
進め 進め いざ進め・・・
羯諦 羯諦 波羅羯諦・・・・
惟神 霊幸栄え坐せ
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