伊邪那岐命が一人で生んだ『片(型)親の神』を理解すべし
カグツチの誕生によって黄泉へと隠れた『伊邪那美命』を追って伊邪那岐命は黄泉へ行き、黄泉そのものが『穢れ』であること、『悪(灰汁)』であることを悟った伊邪那岐命は、黄泉の穢れが現世に漏れないよう、そして湧き出る『灰汁(悪)』を『祓う』ため、『片(型)親』にて新たな神を産みだした。
それは『神の型』であり、『統治の型』となるもの・・・・
左の目から天照大御神
右の目から月読命
鼻から素戔嗚命
それは「神の意思」を照らす「巫女(御子)」天照大御神
「巫女」の「御子」たる「御言」を「審神者(さにわ)」する月読命
御子の御言を主として統治する物部(もののべ)の主(おさ)である「大物主」となる素戔嗚命
その統治の中で湧いた「穢れ」を祓う「大禍津日神」「八十禍津日神」
湧いた「灰汁(悪)」を汲み取って、統治の循環へと回帰させる。
この『型』を「片親」で生み出した伊邪那岐命
カグツチによって生まれた『新たな次元世界』には、那岐神と那美神の和合によって生まれる「理」に非ず、そこは『分離の世界』という神世とは理(ことわり)の異なった世界。
ゆえに黄泉という「灰汁(悪)」の世界と岩戸で隔て、「灰汁が湧く」のを防いできた。
それが『次元上昇』という「次元の接近」により、分離し隔てた世界が重なり始める。
重なり始めた二つの世界で、「黄泉」という「灰汁」の沸き立つのを感知する「岩戸」の開けた人は、「灰汁」を認知すれどどうしていいかわからない。
感知し得ない人は、黄泉から沸き立つ「灰汁」という「霊」に懸かり、されど認知し得ず。
三貴神の『型の理(ことわり)』は、「認知」という左目の天照大御神が目覚めてはじめて認知する。
そして、認知したものを右目の月読命が「審神者」して「理解」へと至る。
その「理解」をもって鼻の素戔嗚命が「対処(穢れを分離)」する。
分離された「穢れ(灰汁)」を禍津日神が「掬(救)って」ゆく。
「救う」は「赦し」
「赦し」は「転化」
灰汁(悪)の因果を解いて転化する
それが「祓い浄め」である。
ここに戻るが第一段階
伊邪那岐命の「地引の岩戸」の手前である。
次元上昇した世界は、その先の「地引の岩戸」が開けた世界であり、黄泉との分離のない世界である。
黄泉の穢れは現世の生きるものの『思い』の穢れ
黄泉からの「穢れ」は自身から湧いた心の穢れである。
それを清めねば「地引の岩戸」は開けない。
開いた途端、「灰汁」となり「ヒルコ」となる。
『清めの型』という三貴神の『型』が無ければ即「灰汁(悪)」となる。
ゆえに無理やり「岩戸」ではない『穴』を開けてしまえば「悪霊憑き」となるだけである。
自らの心身に伊邪那岐命が生んだ『神の型』によって浄められた心身は、ようやく『神の宮』たる資格を得て『神が宿る』場所となる。
認知=天照大御神
理解=月読命
祓い=素戔嗚命
浄め=禍津日神
自分の中にこの循環を持って『巡り』が浄まれば、その巡りの風が華を開かせる。
龍宮の龍が目覚め、富士の山を登るとき
クンダリーニの花が開き回り始める。
伊邪那岐命と伊邪那美命の最後の御子神「カグツチ」という「クンダリーニ」の龍が生まれ、富士の山を昇るとき、分かたれた黄泉戸を開く「岩戸(チャクラ)」が開き回り始める。
不二の木之花咲かす秘め
そうして心身の「次元上昇」は成り、黄泉と重なり生きる生命へと転化する。
左目(右脳)はちゃんと見えているか?
右目(左脳)はちゃんと理解しているか?
鼻はちゃんと穢れを嗅ぎ分けているか?
穢れをちゃんと浄めているか?
地引の岩戸を開くには、自らに三貴神の『型』によって「浄化」の循環が巡らなければならない。
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